イタリアのかかとってどんなところ?

イタリアのかかとってどんなところ?

"Cartoline dal Salento" = サレントからの絵はがき

南イタリアのサレント。
その土地や、そこで人生を謳歌する人々の姿をイキイキと感じられる絵はがきの
ようにお届けしたい、そんなイメージでスローライフなブログを綴っています。
サレント郷土料理のレシピやイタリア語のワンポイントレッスンも登場します。
どうぞごゆっくり、楽しんでいってくださいな^^

2010/02/07

バロック建築の迷宮 レッチェ Lecce (その2)

Ciao a tutti! Come va il weekend?
皆さんこんにちは♪ 週末はいかがお過ごしですか?


前回からレッチェの街を訪れていますが、今回もひきつづきサレント半島の中心都市 レッチェ (Lecce) についてお届けしたいと思います♪


歴史の古いイタリアの都市の中でも、レッチェはとりわけ古いうちに入るでしょう。この街については古代ギリシャ文明にまでさかのぼる、こんな神話というか古ーい言い伝えが残っているんですよ
むーかしむかし、サレントの地にサーロ(Salo)という名の王様がおったそうな。そしてサーロ王が亡くなると息子のダスムノ(DasumnoあるいはDauno)が王位を継いだのじゃが、ダスムノは狩りをたいそう好み、ついにはこの地に多く住んでおったオオカミに食べられてしまったんじゃと。
そして息子のマレンニオ(Malennio)が王となって、レッチェの街の礎を築いたんだそうじゃ。そしてそのマレンニオにはそれはそれは美しいエウイッパ(Euippa)という名の娘がおったそうな。。。
一方そのころ、メッサーピ人でクレタの王であるイドメネオ(Idomeneo, Idomeneus)という男は、戦のあと海で嵐に遭っておった。海の神ネプチューンに向かい「もし故郷クレタに帰ることができたなら、私が陸にあがって最初に出会った者をあなたに捧げるとしよう!」と海を鎮めるようお願いしたところ、見事またたく間に嵐はおさまり、命からがらイドメネオはクレタに帰り着くことができたそうな。
ところが…!なんという運命のいたずらか、イドメネオが陸に上がって最初に会ってしまったのは、自分の帰りを心配して待ちわびておった息子じゃった!悩みぬいた果てに海神との約束を果たすためイドメネオはついに息子を生け贄として捧げてしまった。
それをみたクレタの民は怒り悲しみ、自分たちの王イドメネオを国から追い出してしまったのじゃ。イドメネオはまた海へとこぎ出し、サレントの地に流れ着いた。
そこでイドメネオはサレントの美しい姫エウイッパと出会い恋におち、やがてエウイッパはかわいらしい女の赤ん坊を身ごもり2つの民族がサレントでひとつになったのじゃ。
その赤ん坊を見て故郷の美しい街リーチャ(Lycia)を思い出したイドメネオは、娘にその街の名をとってリーチャと名付けることにし、そしてこの街もリーチャにちなんでレッチェと呼ばれるようになった。そして太陽の女神のように美しく育ったリーチャのため、まちの職人たちは競ってきれいな衣装や靴や建物やら詩をつくってはリーチャに捧げてみな幸せに暮らしたそうな。
めでたしめでたし。。。^^
とまぁ伝承は伝承としてこんな感じなのですが、しかしこの街の基礎を作った人々が、古代ギリシャのエーゲ文明発祥の地=クレタ島から海を渡ってやってきたメッサーピ人であったろうことは考古学者もひろく認めるところで、「トロイの木馬」で有名な、かのトロイ戦争の頃(紀元前12世紀といわれています!)には、歴史上にその名が登場します。
(写真左: サレントではメッサーピ人の陶器の壷などもたくさん出土しています)
それによると、この頃(推定で3000年以上も前)ギリシャ方面から移住してサレント半島に定住していたメッサーピ人はメッサーピ語 (文字はギリシャ文字)でオオカミを意味する "シバル(Sybar)"という名で自分たちの街を呼んでいたそうです。


ちなみに上の昔話に登場するイドメネオ、エウイッパ、ダスムノとマレンニオの姿は、いにしえの時代からレッチェの街の入り口であった三大門のひとつ、Porta Rudie (ポルタ・ルディエ) に胸像の彫刻として今でも見ることができます(写真右: 柱のすぐ上の胸像4体見えますか?現在のPorta Rudieは、16世紀に焼失したのちに17世紀にレッチェ=バロック様式で再建されたものです)。 だけど…リーチェはどうしたのかな?まぁ伝説ですから^^

※ 左の地図をクリックして拡大してもらうと、地理的にレッチェとギリシャがいかに近いかがわかりますね(だいたい85kmくらい)? 数千年間にわたり人の往来や文化交流が盛んに行われてきたんですねー。今でもサレント半島にはGriko(グリコ)というギリシャ系の方言が話される村々がレッチェ近郊に残っていて独自の文化を育んでいます☆


Fracciaもその ”Grecia Salentina(グレチア・サレンティーナ)= サレントのギリシャ”と呼ばれるギリシャ系少数民族の末裔たちが暮らす地域の出身。独特の興味深い文化を持つこの村々についてはまた別の機会にご紹介したいと思います♪
(写真右: 水色の部分がレッチェ県で、赤く塗られた部分がグレチア・サレンティーナの一帯です)


その後、紀元前3世紀頃に古代ローマ人がローマ帝国拡大の過程でこの街を征服すると、先のメッサーピ人にならい、ローマ人はこの街を「オオカミの街」を意味する "ルピアエ(Lupiae)" と呼ぶようになります。
現代のイタリア語でオオカミのことをlupo(ルーポ)といいます。
余談ですが、よくイタリアで使われる決まり文句に、 "In bocca al lupo!(イン・ボッカ・アル・ルーポ)"という表現があります。
直訳すると「オオカミの口の中に!」といった具合ですが、これから試験や試合などに臨もうとする人に対し、「がんばってね!」とか「グッドラック」など応援したいときに使います。「死にものぐるいで」っていうようなニュアンスがよーく出てますよね?
この表現は日常的に使われますから、イタリア語を習っている方はご存知の方も多いでしょうし、イタリアを訪れたことのある方ならば、こういう風に声をかけられたことのある方もいるのでは?
"In bocca al lupo"と言われたら、返答も決まり文句があり、"Crepi! (クレピ)"と答えます。正確には "Crepi il lupo (クレピ・イル・ルーポ)" =「オオカミが死にますように」という意味。
けっして「Grazie=ありがとう」と答えてはいけませんよ!運が逃げてしまうそうですから。 ( ̄▽ ̄;)!! こういう迷信深い話はイタリア人の日常生活の中にたくさん出てきてけっこう面白いものです♪


さてさてレッチェの話に戻りますが、なにしろ現在でもレッチェ市のシンボルにはオオカミの姿が描かれているくらいですから、ここには太古の昔には本当にオオカミがたくさんいたのでしょうねぇ(人間が開墾して住み始めて以来オオカミは徐々に姿を消し、今ではもうオオカミにひょっこり出くわすなんてことはありませんからご安心を^^)。

そしてこの紋章にオオカミとともに描かれている「樫の木」、これがじつは結局レッチェという街の名がいつどのようについたのか?に大きく関わってくるのですが、この樫の木(正確には"ときわ樫"というそうです)を "レッチョ(leccio、または古語でlicinius)" といい、この地域一帯に生い茂っていたために、それが街の名となったというのが今では有力な説となっています。紀元2世紀のローマ帝国はハドリアヌス帝の時代にはレッチェの街がリケアあるいはリチェア(Licea)と呼ばれていたという記述も残っています。ふむふむ、なるほどー!しかしオオカミ(lupo)あるいは樫の木(leccio)のどちらが街の名前の由来となったのかは議論が永遠に続くことでしょう。。。

オオカミと樫の木をあしらった紋章をみていると、人間がやってくるずーっと前、樫の森をオオカミたちが駆け巡っていただろうサレントの姿が目に浮かんでくるようです。そして、オオカミなど野生動物と格闘しながら樫の原生林を、あたり一面のオリーブとブドウの畑に変えていった先人の苦労と偉業を称える…市のシンボルのデザインひとつをとってみても歴史や背景を感じられて味わい深いものですねぇ。
(写真左: レッチェ市街の中心にあるPiazza Sant'Oronzo = サントロンツォ広場の地面にモザイクで描かれたレッチェの市章。"In bocca al lupo"に似たイタリア式縁起かつぎで、地元レッチェの学生たちの間では、この広場に描かれたオオカミを踏んで歩いてしまうと試験に失敗すると言われているんですよ)

今回は歴史好きのMacciaが暴走してしまい、レッチェの歴史(というよりほとんど名前の由来だけ?)しか書けませんでしたが^^;   楽しんでいただけたでしょうか?


それでは皆さんよい日曜日をお過ごしください♪
Buona domenica a tutti! 


★ 次回予告 ★
次回の「サレントをゆく〜レッチェ編」第3回では、いよいよ(出し惜しみするつもりはないんですけど^^; )レッチェの街の見どころをたっぷりご紹介したいと思います!お楽しみにー♪ Ciaooooo!!



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